INDEX MAP DOX





 むかーしむかし。この地を護る竜神さまはとても気まぐれで飽きっぽく、しばしば退屈しのぎに世の災いをほうっておきました。ひとびとは病や飢えに苦しみ、竜神さまはその姿を肴にすることで、かろうじて世界を見放さずにいたのです。
 ひとびとは竜神のなめくさった態度に怒りをおぼえましたが、なにしろ神さまが相手のこと、怒ってもムダなのでそのエネルギーをべつのことで発散するようになりました。

 お祭りです。

 それはもう、飲めや歌えの大騒ぎでした。やけっぱちぎみのひとびとが放つ熱気はなかなかばかにできないものがあり、竜は騒ぎを見てなにごとかと思い、人間に化身して当時の長(生没年不詳)のもとに現れ、みっつのことを訊ねました。

 なにやってんの、
 たのしそうだね、
 まぜてくんない。


 長はひとめ見て竜の化身の正体を見抜きましたが、見抜けるだけの経験を積んでるくらいなので、しっかりした分別のある大人でした。だから『おめーのせいでこうなってんだよ』と言うかわり、いいですよ、と答えました。

 たのしかったね、
 つぎいつやんの。


 祭りを満喫したあと、竜はまたふざけたことをほざいたので、長はキレかかりましたがふみとどまり、答えました。

 民が苦しまずにすむようになれば、もっとちょくちょく祭りが開かれることでしょう。

 はい、じっさいとは順序があべこべですね。老獪というのはこういう切り返しのことをいうのでしょう。
 竜は信じました。すこしだけ悩み、そして言いました。

 オッケー、じゃあめんどくさいけど、そうなるようにしてみる。
 そのかわりおまつりよろしくね。


 こうしてこの地は祭りにまみれるようになり、祭りでないことまで祭りとして扱われるようになり、そのあげくに完成したのが、祭りを司る学び舎、大祭禮学苑なのです。

 ぼくはパンフレットをぱたりと閉じると、思ったことをそのまま言った、

「うっそくさ」



「うそくさくても、ほんとうなんじゃよ」
 3階に上がり、校長室に入ると、待ちうけていたじいさんが開口一番そう言った。
「すくなくとも、ほんとうに伝承されちょる。この学校の成り立ちもほんとにそれじゃ」
 ……口は災いのもとだ。どうやって聞いたか知らないが、うかつなことを口走るものじゃないな、とぼくは思う。それとべつのことも思う。
「『じゃ』って言う老人って実在したんだ……」
 口に出してしまった。
 じいさんはゆっくりかぶりをふると、おんがくのほうを見て、
「キャラづくりの一環じゃよ。なー、がっきー」
「はーい。でも似合ってないでーすわたしのあだ名もヘンでーすしかも二番煎じでーす」
 元気に挙手しながら、おんがくは矢継ぎ早に答えた。

 まともなやつはいないのか。

「さて、きょう始業式の学校はあまり多くなかったからの、転入生はきみでラストってわけじゃが、……名前なんじゃっけ?」
「ヶ原大儀です」
「……なにヶ原じゃって?」
 そらきた、と思ったとき、いとこ知識でおんがくが助け舟を出してくれた。
「『がはら』だけですよ。ご先祖さまにいろいろ紆余曲折あって、削れちゃった苗字なんだそうです」
「ふーん……へんなの」
 くそじじいめ。
「まあなんでもいいわい。おまえさんはきょうから2年……3年? 丁組てーぐみちゅうことになる」
 T組?
「1年ですよ校長先生」
 そうじゃったかもしれん、とかぶつぶつひとりごとをつぶやいている校長を置いて、おんがくは歩きだした。
「え、って、これでお話終わり? いいの勝手に出ちゃって?」
「いーんだよー。てより、じっさいに観たほうがぜんぜん早いからね」
 このお祭り騒ぎをか……
 にぎやかなのは苦手なんだけどね。
「どこをどう観ればいいわけ?」
「ぜんぶ。名門校の熱気を肌で感じれば、たいぎーもすぐなじめるようになるよ」
 名門校ねえ……祭りの名門ってなんだそれ?
「そういえば、おんがくは成績優秀すぎてここに呼ばれたんだっけ。なんの成績が評価されたんだ?」
「決まってるじゃん」
 ぼくはこのとき、正直こいつがなにを言いだすつもりなのか、けっこうわくわくしながら聞いていたというのを告白しておこう。

「耐久性と集中力だよ」

 なんだつまらん。
 つまらんなりにおおいに納得したが、同時にぼくがなぜ入れたのかますます不可解になってきた。
 ぼくは神経も過敏ぎみなら、身体もそう動かせるほうではないし、本気でなにかにとりくんだことなんか、これまでいちどもないのだ。そんなぼくにもぼくのポジションがあるのだろうか。見当もつかない。
 そもそも祭りだ。祭りって、そう名づければお祭りになるわけじゃないはずだ。
 祈願したり感謝したりする対象、たとえば神だとか、健康とか、豊作とか、なんらかの見えないものへ向けて自己アピールするための意思表示のはず。そのために、共同体の体力を消耗してでも大騒ぎするわけだ。
 それが恒久的に続くというのは、もう生き地獄ではないのか? 常人のエネルギーではあっという間にガス欠だ。おんがくみたいな生徒ばかりならなんとかなりそうな気もするけど。すくなくとも、ぼくはムリだろう。
 だいたい祭りと祭りでない時間というのは、メリハリをつけるべきなんじゃなかったっけ? ハレだのケだのいうやつ。
 ううん、出るまえに校長に訊いとけばよかった。
「なんだろうな……ばかとハサミはなんとかってことなんかなあ……」
「失敬な! わたしは頭脳にも自信あるよ!」
 むしろこのたとえはぼく自身について言ったのだけど、おんがくはかんちがいした。ぼくは説明するのもどうかと思い、流すことにする。
「わかったよ。いずれ見せてもらうから。で、いまはひたすら出しものを観てまわれってことでいいのかな?」
「それなんだけど、ちょっと説明が必要で──」

 ぐわくしゃあん!!

 轟音はガラスが砕ける音だった。天窓にあたる斜めにせり出した採光窓から、なにかが飛びこんできた。
 うずくまっていた影はゆっくりうめきつつ立ちあがり、

「……るーうるるるるるおう……!」

 モンスターがあらわれた。
 そういう形容が黒地に白でウィンドウ表示されそうな、堂々たる『出現』だった。
 金のたてがみをなびかせ、さらに金のブレスレットをいくつもじゃらじゃらとはめている。王者の風格を持つ、謎の獣。
 この時点では、ぼくは彼女を人間だと思っていなかった。四つんばいで髪を振り乱し、地獄から響いてくるような低いうなり声をあげ、そしてなにより、

 あの眼光。

 物理的に相手を空間にピン止めするかのような、おそろしく鋭い光。目をそらすことすら許してもらえない。つまり、こちらの視点は眼にしか焦点を合わせられなかったわけで、人間じゃないと思いこんでもしかたなかったといえるんじゃないのかな。
 言いわけはこのぐらいにしておこう。
 なんにせよ、これがいわゆる、ぼくと『再来』のセカンドコンタクト──というより、顔をあわせての遭遇ははじめてとなるのだが、
「くあっ!!」
 やつは犬歯をむきだしにしてこっちに驀進してきた。
 人間の反射速度を凌駕するすさまじいスピードで、もちろんぼくにはなすすべもない。
 ぼくは本気で死を覚悟した。
 そして、ぼくの運命は決定された。



 話は30分後へと先送る。
 ぼくはベッドの上にいた。
 保健室で治療を受けていたのだ。ケガのほとんどは飛散したガラスの破片によるちいさな切り傷だったが、左腕にひとつだけおおきな傷がある。
 噛み跡だ。
 ハンガーにかけられている上着も、袖のところがぽっかり丸く削られている。よく肉と骨が無事だったものだと思う。ついでに言って、まえの学校の制服でよかった。
「なにやらかしたんだね、こりゃ。コモドドラゴンの巣にでも踏みこんだのか?」
 保健医が傷を検分したときのそのことばを思い返しながら、ぼくは傷を見つめている。
『謎の生徒にやられたんです。さいしょは人間と思いませんでしたけど』と答えたら、保健医はなにか得心したようにうなずいていた。
 ベッドの上で半身を起こし、ぼくは考えていた。
 コモドドラゴン。たしかに──そんなような印象の、人間にしては鋭すぎ、獣にしては小型すぎる歯形だった。
 しかも、なんだか歯並びが芸術的にきれい。
「……たいぎー、なに傷ながめてうっとりしてるの」
 ちょっと腰がひけているような体勢で、椅子に腰かけているおんがくが言った。
「さっきまで野生の王国にいたんだから、ちょっとは休ませてよ」
 保健医がインスタントコーヒーを淹れて戻ってきた。
「文化的な感慨にふけっているのかい」
「ああ、うん、そんなとこです」
 言ってる意味はよくわからないが。
「文化って……あれは台風みたいなもんじゃないんですか?」
 おんがくが、口をとがらせて異を唱える。
「台風はただ暴れるだけ。再来さんはそうやって『しるし』を残していくのだよ。文化的じゃないか」
 ……?
「再来かどうかわかんないじゃないですか、まだ」
 ううん、ぼくがいま話題にとり残されている理由を考えてみよう。
 知らない単語が混じっているからだ。
 いや、辞書的な意味は知ってる。もちろん。この会話の文脈上での意味がわからん。
「すみません、その『再来』ってなんですか?」
 保健室の気温が急降下したような錯覚があった。
 保健医とおんがくがゆっくりとこちらへ向きなおり、
「たいぎー、その話、いつ……」
「……どこでそれを聴いたのかね?」
「いま! ここで!」
 こいつらダブルでぼくをからかってるんじゃないだろうな。
「まあ冗談はさておき」
「ですよね、あはは」
 マジでからかってたのかこいつら。
 ぼくが殺意をこめた目つきで保健医をにらんでいると、メガネの奥の意外に鋭いまなざしが見つめ返してきた。
「毎年出るんだよ、だれかしら」
「なにが?」
「竜神さまが化身した人間って話が、パンフにあったでしょ? あれの再来って言われるひとが、出てくるの」
「そうなのだよ。おかげで再来祭禮とかいって、年度末にコンテストが開かれるぐらいになったんだが──」
 保健医は大まじめにメガネを押し上げて、すこしの間をおいて言った。
「今年の最有力候補は、まちがいなくあの子だ」

 ……。

 どこまで真剣なんだ、この学校?
 ちなみにぜんぶ真剣なんだったら、いま辞めたい。



「うん、うまい」
 ぼくは心底から言った。
 体育会系らしい、むくつけき男が汗を流しつつ焼いていたいか焼きだが、これが当たりだった。うん、ぼくは出店を見る目がある。とかどうでもいいことでプライドを充足するさもしい心がわれながらちょっと恥ずかしいが、ともかくうまい。
「機嫌治った、たいぎー? ケガも浅くてよかったよねえ」
「治った治った。やっぱりおいしい食べものは最高だね」
 最高だし、たしかにこうにぎやかだと見ていて飽きないし、細かいことはどうでもよくなったが──

 それにしたって、竜はどうかと思う。

 ここは日本だし、神さまは細部に宿るものって教わったこともあるが、それにしても竜神さまの化身はないだろう。そういう設定で盛りあがる祭りだというのはわかるが、なぜみんなノれるんだろうか?
 ……このいか焼きとおなじか?
 それが祭りの魔力というものなのか?
「たいぎー……どうしたの?」
 顔の前に、おんがくがひらひらと手をふってきた。
「こんどはあのお店とか見てこうよ、なんか本格的なテントで占いやってるよー」
「占い、ねえ」
 個人的に興味がないことはおいといて……
 どうもなんだか違和感が消えない。こんなに熱心に他人の腕をひっぱるような女だったろうか?
「……おんがく」
「?」
「なにか隠してたりはしないよね?」
「え? なにかってなにが? やーだなーわたしが隠しごと苦手なことわかってるくせにいー」
「うん、だから察したんだけどね」
「……」
 さっきからずっと、なにかから遠ざけようとしているように見える。
「目を合わせてみようよ、おんがくちゃん」
「いやーっ……そのーっ……」
「どの?」
「……」
「……教室に近づけまいとしてない?」
「うわあああああああっ!」
 いや、口をふさがれても気づいちゃったものはどうしようもないが。

 とりあえず占い部屋には入ってみた。くわしい弁明はあとで聞こう、ということになったのだが、どうもごまかす気満々に見えるのでそうはいくか。
 とか油断なく警戒していたぼくは、心ここにあらずだった。そのせいで、足を踏み入れたその天幕の内部が、いかに異様な空気をたたえているかを見落としていた。
 占い師はまちがいなく生徒ではあったのだろうが(高等部らしくおちついたおねえさんだった)、視線を吸いこむような水晶玉、本格的な衣装はもとより、それらの妖しいふんいきすべてを呑みこむブラックホールかのように黒々と輝く──いや、輝きとは逆の、ぽっかりとした空洞めいた黒さの瞳。

「──あなた」

 占いの演出の基本なんだろうが、ぼくもそれにのっとって、じぶんを指差していた。
 占い師はゆっくりうなずくと、もういちど「あなた」と言った。
 ぼくは思わず唾を飲みこんだ。

「いか焼き食べ終わってから出直してきなさい」

「ごめんなさい」
「また来ます」
 緊張感をそいでしまったらしい。
 ぼくとおんがくは反省し、いったんすごすごと天幕を出ようとしたが、その瞬間耳にしたことを聴き逃がさなかった。

「……こうばしいかおり……」

 そのささやきに乗せて、ひかえめに聴こえたあの音──あれはたしかに腹が鳴る音だ。
「悪いことしたかな、ぼくら」
「うん……そうかも……」
 ぼくたちはさらに反省した。
「差し入れでも持って入ったほうがいいのかな」
「そうだよね……わたしがなにか買ってくるよ……」

 だが、それすら周到な罠のひとつだったとは、まさか神ならぬぼくがわかろうはずもなかった。
 そう、神ならぬ、
 はずだったのだが。



 おんがくが差し入れを買いに行くとかいったのは口実で、時間稼ぎじゃないだろうか。そんなふうに思いはじめたのは、ひとりで占い部屋にもういちど入ってからしばらく経ってのことだ。さっきの会話の直後で、のんきな話だと思う。

「ぬー。むー。はあー」

 先輩らしき占い師のおねえさんは、水晶玉になにやら手をかざし、ゆっくりと韻律のようなうめきをあげて、独特のムードをつくりだしていく。
 たぶんこれも演出なのだろう。この狭い天幕のなかに、ひとつの別世界を出現させるための、段階的ななにか。
 儀式……
 祭り?

「あなた」

 ぼくは考えごとをしていたために、そのひとことで異空間に呼び戻された
「はいなんでしょう」
 われながら暗示にかかっている感じがしない返答だ。いか焼きを排除したほどの本格派占いなのだ。ふんいきづくりに協力しなくていいのか、という気分と、逆にそのぐらいのことはしっかり占う側がコントロールしてくれるんじゃないか、という期待が入り混じっている。
 ぼくは粛々として、占いの結果を待った。

「あなたはちょっとわたしの好みなので占い料はサービスということで」

 かくん、とヒザが折れる音が聞こえた。
「いままでの動作に意味はあったんですか!?」
「かっこつけです。この玉は飾りですしあんまり関係ないんで」
 いろいろ考えて損した……
 歯軋りしているぼくをよそに、あらためて先輩は告げた。
「あなたはきょうじゅうに、ひ──たいへんなことになります」
「ひ?」
「そのまま言うのはちょっとかわいそうだったので」
「ひどい目に遭うんですか」
「やりますね……!」
 占いおねえさんは不敵に笑った。
 不敵に笑う意味がわからん。
「わかりました。それはいいです。なんか対策とかあるんですか」
「あらがいがたい運命にそれでも抵抗する人間には、2種類いますよ、転入生くん」
「なにとなにの?」
「抵抗したおかげでましになるひとと、なまじ抵抗してより悪化した状況に立たされるひとです」
 なんて役に立たない占いなんだ。
「なぜ落胆しているんです? まだ終わりじゃないですよ」
 占い師先輩はまた不敵に笑った。
「いいですか、あなたのきょうという日は、たしかにどうあがいてもろくでもないことになるかもしれません。しかしそ──」
「はーい、おなか減ってるみたいだったから差し入れ持ってきましたー」
 おんがく乱入。
「それはありがとうございます。じゃあ占いはひとまず中断で」
「すげえ気になるところで止められた!」
「占いなんてあてにしないでいいですよ。さいごにものを言うのは人間の意志なんですから、あ、これおいしいですね」
 鶏のからあげをほおばりながら、投げやりに先輩が口走った。
 それ言ったらぜんぶ意味ないじゃないか……
「行こう、おんがく」
「え? いいの?」
 やってられない、とぼくが天幕を出ようとすると、
「ただ、アドバイスがひとつだけ」
 口許をぬぐいながら、先輩は凛とした声でぼくに語りかける。
「ここを、この世界を、はじき出された先なんてふうに認識していては、楽しめませんし生き残れません」
「……」
「この学校に呼ばれたために、あなたのもといた世界は消滅した、そう思うべきです」

「なんか、ことごとくよくわかんなかったねえ。味のあるひとだったけど」
 おんがくが両手を頭のうしろで組みながら歩く。その横を行くぼくは、たしかによくわかっていない。
 なぜ、彼女がぼくの気持ちを見抜いていたのかということと、
 なぜ役に立ちそうにないふうにして、なんでもないところにアドバイスを落としこんだのかということ。
 身がまえていない、さいごのタイミングに。
 ぜんぶ計算ずくだったら、たいしたものだけれど。
「じゃ、たいぎー、行こうか、教室」
「行くのか!?」
 ぼくは耳を疑い、思わずおんがくのほうへ身体ごと向きなおってしまった。けっきょく遠ざけようとしていたのはなんだったんだ。
 満面に余裕めいた笑みを乗せて、わが読みがたい従姉妹はうなずいた。
 こいつも──みごとに虚を突いてきた。
 じつはぼくってスキだらけなのか。
「教室……」
『ひどいこと』はそこで待っているのだろうか……? ぼくはなにをどう抵抗すればいいのかすらわからないままだ。



 祭りといってもいろいろあるが、決して例外のない共通点がある。
 おどるあほうがいて、みるあほうがいることだ。

「着いたよ、たいぎー」
 おんがくが立ち止まった教室には『1−T』とある。
 T組まであるのか? いくらなんでも校舎の規模が大きすぎると思うけど。ほかのクラスはどうだったっけ、と見ようと思って、視界の正面に教室の引き戸があるというあたりまえの事実を発見し、はたと気づいた。
 そんなことより、あいさつとか考えないと。
 釈然としないままここまで連れてこられたのはたしかだ。でもやっと教室までたどりついたのだから、あらためて襟を正せばいいではないか。なにしろぼくは転校に関してはまったくの初心者。だが、なめられてはいけない。転げ落ちて汚れたり、噛み破られたりで、ぼくの制服はあまりみっとものいい状態じゃなくなっているが、ぼろを着てても心はの精神で、しっかり印象づけなければ。
 占いも、おんがくの不可解な言動も、ひとまずは忘れよう。
「じゃ、あいさつだし、とりあえずひとりで入ってね。わたしはあとからついてくから」
 ぼくはうなずいた。
 いいだろう。
 気持ちをおちつけて、ぶっつけ本番でいってみる。
 ぼくはゆっくり深呼吸をして、がらりと扉を引き開けた。

「いらっしゃいませ」

 頭のなかで亀裂の走る音がした。

 そこにあったのは教室の入り口ではなく、豪奢な和風の玄関だ。
 廊下へつづく上がり口で待っていたのは、三つ指突いた、
 眼光鋭い、金髪褐色の少女だった。

「……ドラゴン?」
 くぁっ、とそいつは牙をむき、
「るおおおおおおおおーっ!!」
「ぎゃあああああああああ!!」
 3秒と耐えられなかったらしく、着物をはだけ、下のタンクトップをのぞかせながら襲いかかってきた。
「あーっ!? 着せるのにあれだけかけたのに!!」
「やあ、着せるまではいいけどセリフおぼえさせるって時点でムリがあったんじゃないのかな?」
「たかが『ごはんにしますか? おふろにしますか? それとも……わ・た・し?』がムリだっての? きみは!」
「内容をさっぴいても、ごはんって単語で腹のほうに神経がいっちゃってムリなんじゃないかなあ」
「なるほど……それは気づかなかったねえ……」
 こいつらはひとが捕食されようとしている現場で、なにをのんきに打ち合わせているというのだ。
「るぉー……!」
 組み敷いてきた金髪の様子がおかしい。
 ぼくの腕についた歯形を見て、なにかを恐れたかのように口許をおさえ、がばっととびのいた。
「……!! ……!? ……!!」
 金髪の少女は腕で顔の下半分を隠している。なにを考えているかはうかがい知ることはできない。だが小麦色の肌が、それでもわかるていどに紅潮しているのを、ぼくは見る。
「う……う……あ……」
 青くてきれいな目が、混乱でぐるぐると焦点を喪うのが見える。ぼくはこの子の顔をまだちゃんと正面から見たことがない……襲われたっきりだし……と思ったとき、違和感に気がついた。
 ぼくはそれ以前にこの怪獣と会ってるじゃないか、と。
「あ、あんた……」
 ぼくが記憶の断片を組みあわせつつ、その子に話しかけた瞬間、
 両肩をがっしとつかまれた。
「よう。やっと来たな」
 中等1年の教室に場違いな、といってうちの制服を着てはいるし、教師にはとても見えない年齢の、中途半端に若くて背の高い男。
「……う」
 ぼくはまた、新たななにかに気づきかけた。

 ぼくは、さっき左腕を食われかけたとき、それ以降のことをおぼえていないのだ。

「そうだ。思いだしてきたみたいだな」
 大男が言った。
「わ……忘れてるってことだけはね……」
 ぼくは男本人と、あいかわらずうろたえてる金髪の再来さん、そしてぼく自身の胸を見やる。
 おんがくがぼくをここに連れてくるまでに、この教室でいったいどんな準備をしていたのかも、うすうすとは予想がついてきた。
 そして、ぼくはつぶやいた。
「……フェスティバルか」
「?」
 男はいぶかしむ。
 ぼくの決心は、いまついた。
 ぼくはこの学校のシステムに組みこまれたくない。
 そうなってしまうわけには、いかない。



 フェスティバルとカーニバル。
 このふたつには、見世物と全員参加というちがいがある。きょうのお祭りは前者の趣向であるようで、でもぼくはおとなしく他人の目に晒されてよしとするタイプじゃない。
 そんなシステムにぼくを呑みこむための、それこそ通過儀礼として、今回のなんらかの悪だくみがお膳立てされたというのなら、ぼくはそのまま踊るあほうでいるつもりはない。かといって、ただ見るあほうでいるのもごめんだ。
 理想は、あえて言うなら……そう。
 戦うあほうだ。

 事態を整理しよう。
 ぼくらはいまお座敷に通されていた。教室を開けた瞬間出現した玄関口は、このクラスの催していた料亭の入り口だった。
 ……料亭。いやじっさい、一見してベニヤ板一面にそれらしい飾り紙テクスチャーを貼ったものを組みあわせただけには見えないほどの、なかなかたいした造りだ。
 でも出されたメニューがカレーライスと焼きうどんとフルーツみつまめ。ちっとも料亭じゃなかった。
「フルーツみつまめは料亭らしいよね?」
「億歩譲ってそうだとしても、あれただの缶詰で、ここのメニューでいちばんラクだけどな」
「うるさいだまれ立花先輩」
 うるさいだまれと言いたいのはぼくだ。
「あ、ちなみにあたしは歓迎委員の十丈崎条理じゅじょざきじょうり。今回の1−丁歓迎祭の、まあディレクターってとこだね」
 つまりは諸悪の根源か。
「高等1年兼中等4年の立花だ。こいつはキカ・なんとか・雛蛇ひなた
「るるるるるうううう」
 年かさの男は、右手1本で金髪娘の頭を押さえつけている。彼女の頭はせわしなく動いているが、どんな技によってか、首から下は正座のまま微動だにできていない。男はそのまま指でくしゃくしゃときれいな金髪をいじりながら、
「こいつを制圧捕捉できるのがおれだけなんでな、必要なときにお呼びがかかる」
「るいいーっ」
 乱れた前髪の奥にちらちらとややにじんだ目がのぞいている。その目でうらめしげに頭上を睨み、キカさんは唸る。
 しかし中等4年って。
 つぎに、マイペースなメガネのひとがじぶんの胸に手を当てて、
「やあ、ごめんね、丁組うちの連中ちょっとやりかたが強引で。ぼくは迂遠藤義述うぇんどうぎじゅつ。ヨシノブって呼んでほしい。保健委員なので救急用に控えてたんだ」
「お寺の息子さんなの」
 なの、じゃないだろおんがく。いつの間にか、なにくわぬ顔で横に座ってるし。
「で」
 ぼくが聞きたいのはそんな自己紹介じゃない。申し開きはまだなのか、という目で一同を見渡した。
「おう、わかったわかったそう怒るなよ」
 立花さんは意外とフレンドリーに両手を軽く挙げ、
「じゃ、歓迎委員、弁明をどうぞ」
「賞金が欲しかったの!!」
 順序だててものごとを説明できる人間がひとりもいないのか……

 事態を整理しよう。こんどこそ。
「つまりこういうことですか?
 今年の再来祭とかいうやつのグランプリ最有力候補は、このクラスに所属している、そこの野生味あふれる雛蛇さんで、コンテストまでの話題づくりだか、写真でも撮って小銭を稼ぐのか、とにかくネタがほしくて転入生を襲ってるところでも撮影するつもりだった?
 いや、さいしょは着物着せて出迎えさせたんだからちがうかな……転入生をもてなすレアな姿を撮るつもりだった?」
「いい読みだね。でも、惜しい」
 保健委員のヨシノブさんというメガネさんが言った。
「あくまでこのイベントの主賓は、きみなんだよ、ヶ原大儀くん」
「そういうわけなの。もちろんこれを機にキカちゃんにいろいろ着てもらおうとかは思ってたけどー♪」
 十丈崎歓迎委員が頬に手を当てながらじぶんの想像に身をよじる。
 なんだ趣味か。
「ぼくが主賓ってのは、けっきょくどういう意味なの」
 いちばん話が通じそうなメガネのヨシノブに問うと、かれは謎めいた笑みをうかべ、
「つぎにきみの時間が飛んだときのお楽しみだとも。ジョリィ、華南さん、スタンバイ」
「まかして」
「はいはいっ」
 おんがくがデジカメを、歓迎委員さんがもうちょっと本格的なビデオカメラをかまえ、
「たっちん、雛蛇さんを解き放って」
「おう」
 と言った立花さんは、さっき両手を挙げた時点でとっくに頭から手を離していたことに気づき、
 その場にいる全員、ひとり残らず、キカさんが姿を消していることをそのとき初めて理解した。



 消えてしまった雛蛇キカ。
 『竜の化身の再来の最有力候補』という、宮崎アニメのタイトル並に『の』の多い肩書きを持った少女。
 ほんとうに彼女がそうだというなら、いわばこの学校の主役みたいな存在だ。
 訊ねてまわればあっという間にみつかるんじゃないのだろうか?
「ところがこれがつかまらないんだな」
 立花さんはどっかで聞いたようなことを言うと、肩をすくめた。
「きょうは始業祭で障害物が多い。それでなくてもこの校舎は改築増築あたりまえで、あちこちスキマだらけなんだ。常識じゃ考えられないような通り道がある……
 しかもキカのやつは軟体のうえにちびだ。あのとおり半分は野性で行動してるから世界の見えかたもちがう。
 あいつはおれたちの知らない道を持ってる。『この学校であってこの学校でない空間』に棲んでるみたいなとこがあるんだ。
 つまり、こっちから呼んで、むこうがその気にならないかぎり……いまみたく、へそ曲げて逃げられたら、腹がすかないうちはまずアウトだ」
「きょうは機嫌よかったから安心してたのになーもおー」
 十丈崎歓迎委員が頭をかく。
 しかしぼくは考えていた。どうもなんだか、釈然としない。
 あいつ、ほんとうに機嫌を壊して逃げたのか?
 なぜだろう。ボサボサの金髪に隠れていて顔もまだまともに見ていないのに、なぜか古くからの知り合いみたいな気持ちがする。親近感をおぼえる。
 まさか、前世の結びつきってわけでもないだろう……
 ああ。ぼくもさっそくこの学苑に毒されてるみたいだ。
 それにしても、さっきあの子がうろたえていた理由はなんだろう?
 ぼくの記憶が抜け落ちているときに起きたことと関係があるのか?
「ねえヨシノブくんてひと」
「なにかな」
 めがねのヨシノブくんは、さわやかな笑みをうかべているばあいじゃないはずのこの状況で、さわやかだった。
「……もったいつけずに教えてほしいんだけど、ぼくの記憶が飛んでるあいだになにが起きたか、知ってるんだよね?」
「華南くんに聞いたからね。彼女に直接訊くといいよ」
「そうか、あいつが観てたんだっけ──」
 おんがくのほうを見ると、彼女はぽかんと口を開けてぼくを見ていた。
 いや──ぼくの背後を見ていた。
 ふりむくと、ぼくの背後には卓しかない。
 さっきはなかった気がするが。
「……」
 卓がもぞもぞと生物のように動き、

 その下からすごい勢いでキカが現れた。

 逃げたわけではなく、チャンスを狙っていたのか!
 思えば、なぜか彼女はぼくと目を合わせたがらなかった。死角から攻撃するチャンスを待っていたのだ!
「るぉおおおおおおおおっ」
「頭をつかめっ」
 立花さんがなにかを叫んだが、
 ぼくに対応のいとまはなかった──



 はじめにも感じていた違和感がある。
 この学校の存在に対する、決定的な違和感。

 毎日が学園祭で、だれが楽しいというのか。

「楽しいとかつまらないとかじゃないんだよ、たいぎー」
 ちょっと口をとんがらかせて、いとこどのはその疑問に答える。
「じっさい、うちの祭りが減ると、この地域の犯罪や事故や自然災害が増えるんだから、しょうがないの。ちゃんと統計とってやってるんだから」
 それはひどい話だな、とぼくは夢うつつに思う。
 たやすく想像できる。きっと、事故や病気のたびにこの学苑の生徒たちの怠慢のせいにされるのだ。
 おんがくは否定せずに苦笑し、
「だから、成績優秀者を集めてるんだよ、きっと。
 勉強しながらお祭りの準備やかたづけに追われてもそれに耐えられる、どころかそんな経験までも吸収して、社会勉強やスキルアップにつなげられるような優秀な人間がね。
 うーん、よく考えたら優秀ってのとはちょっとちがうのかな、
 人生に気合が入ってるっていうか……
 世の中への期待とか要求がおっきいひと?」
 ぼくにそんなエネルギーあるのか。自覚はまったくないけど。
「どうかな? わたしはありそうに見えるけど、そのときになってみないとわかんないね。でも、いちばん大切なのは──」
「そろそろいいだろうか」
 寝そべっていたぼくは、もうひとりの声の主のほうへ目を向ける。
 ヨシノブくんだ。
「目を醒ましたなら、さっき起きたことを見せるよ、ヶ原くん」
 うなずくと、頭に載せられていたおしぼりが目の前の床に落ちた。

 その光景は、へたくそな芝居のようにしか見えなかった。
 本来現実はあまりに冷徹なものだ。三者の視点から観れば、滑稽な芝居のようなものだということだ。
『るぉおおおおおおおおっ』
『頭をつかめっ』
 キカの稲妻のような動きに対応できず、喉笛に食いつかれようとした瞬間、そのままあおむけに転びそうになったぼくは、倒れまいとして逆につんのめった。
っっご
「うわ……すっごい鈍い音」
「いったっそうー」
 ビデオカメラの画面をいっしょにのぞきこんでいた歓迎委員とおんがくがささやきあうが、画面内の時間はかまわず進む。
 頭蓋をしたたか激突させあったぼくらは、ふたりとも頭を抱えてふるえながら、たがいにふと相手を見る。
 涙まじりの視線が交錯する。
 うっかり交錯する。
 ふたりの動きが停止する。
「さて、ぼくの予想では、ここからきみの記憶が飛んでいると思うが」
 ヨシノブのことばに、ぼくはうなずくまでもない。
『……』
 画面のなかのぼくは、無言だ。
『……』
 なにも言わず、ただキカを見ている。
 だが、さっきまでの光景とは裏腹に、いま画面越しですら、ぼくは思う。
 この圧迫感はなんだ。
 その場にいた人間はどう感じたろうか、この光景を。
 第三者であろうと、記録映像であろうと、おかまいなしに心をねじふせるような、この重圧。
 そして、泣きそうなほど萎縮している、画面のなかのキカ。
 現実の部屋の隅に目をやると、画面の外のキカは、この音すら聴きたくないのだろうか──耳をふさいでちぢこまっている。

『るるるうおおおお』

 低く、深く、地鳴りのようでいて、星のまたたきが音になったようでもある、ひどく豊かな唸り。
 キカのそれが仔猫の鳴き声かなにかだったかのような、とてもきれいな音だった。
 これがぼくの喉から出ているだって?

 ぼくは彼女を御したことに満足し、うずくまったまま目を閉じる。

「というわけで、きみがこの学校に呼ばれるだけの理由はあったわけだ」
「まさか本物が来るなんてねえ。いやー長生きはするもんだと思ったわ。まだ13年だけど」
 あたりまえのように話を進めようとするヨシノブと十丈崎歓迎委員。ぼくはたまらず、
「おいちょっと待て」
「なにかな」
 メガネがきらめいた。あいかわらずムダにさわやかで意味なくむかつく。
「竜神の化身ってのはただの伝説でもののたとえでイベントなんだろ?」
「だれかそう言ったの?」
「……」
 いや、言ってなかったか……? どうだっけ……?
「じゃ、じゃあキカはなんなんだ。なんで候補がふたりもいて、強弱があるんだよ」
「だってキカは留学生だしなあ」
「スペインから来てるんだから、ここの竜神さまが化身してるのはおかしいでしょ。スペインの竜なんだよ」
 なるほど。竜は唯一絶対じゃないってわけか。
 なるほど、だんだんわかってきたぞ。

「……でも」
 ぼくはそろそろこのあたりだと思っている。
 潮時だ。

 おんがくがぼくをここに連れてくるまでに時間を稼いだ理由は?
 あの占い師が言っていた『ひどいこと』ってなんだ?
 このクラスのほかのメンバーは、いったいなにをしてる?
 毎日文化祭の学苑が存続できているなんてばかげたことがあるものなのか?

 さあ、いよいよ終局だ。
 世界のヒューズはまだ飛ばない。まだまだもちこたえている。
 祭りに踏みこみ、壊れていくのはここちいいものなのかもしれない。
 すべてを否定し、冷ややかに観ているようなポーズでちゃっかり参加するのもいいだろう。
 でもぼくは、ぼくにとっては、踊るのも観てるのもあんまり楽しくはない。
 なぜ楽しくないのかって?

 それじゃあ、ものたりないからだ。



 認めてしまってもよかった。不都合はなかったのだ。
 流されてしまって、まったくかまわなかっただろうと思う。
 なぜぼくは、そうしなかったのか。

 じぶんがだれかの思惑に従って動いていた、という結論に自力でたどり着いたとき、人間はまずなにを思う?
 操ってきた相手への怒り? たしかにありそうだ。でも一番ではない。
 操られていた自己への怒り? ずいぶん殊勝なことだ。でも一番ではない。
 操ってきた相手の手管に対する敬意? うそつけ。
 はじめに感じることがあるとしたら、それはひとつしかない。

 ぼくの視界にいま存在する5名、中4兼高1の立花さん、クラスメイトとなるらしき歓迎委員と保健委員、雛蛇キカさん、華南おんがく。
 そして、ぼく……ほか。
「そろそろ出てきてくれない? みなさん」
「……はあーい」
 さきほど立花さんが言ったとおり、この『料亭』には見た目ではわからないスペースがあちこちに存在していたらしい。移動しやすさを鑑みてか、間仕切りにスキマが確保されているようだ。
 とか説明している場合ではない。
 ぼくは一同を見渡して、ちょっとあきれる。
「……クラス全員?」
「まあ、だいたいはそろってるかな」
 たしかにそろっている、とぼくも思う。
 ひとり、予期していた人物はいた。上着を脱いでいるがまちがいなくズボンはぼくの母校のものだ。髪型も心なしか似ている。遠目にはわからない。
 なるほど、想像以上に周到だったようだ。でももうひとり、肝心のひとがいないな……
 ぼくは立花さんのほうを見る。
 かれはため息をつくと、
「どこまでわかってるんだかわからんな」
「とりあえず、連絡手段があるならおねがいします」
 立花さんは人差し指で頭をかくと、かぶりをふった。
「がっかりさせてすまんが、あいつはだれにも手が出せん」
「え? え?」
 おんがくはきょときょとと周囲を見まわしている。もしかして、全員がすべての事情を知っているわけではないのだろうか?
「おかしいと思ったのは、あの映像に映ってる、記憶が飛んでからのぼくの左袖です」
 噛まれて穴が開いているはずの服の袖が、なんともない。
「ぼくはたしかに、さいしょに襲撃をうけたとき、左腕を噛まれたショックで短く気絶していました。でも、だからって、いまのは記憶が飛んでいるんじゃない。キカさんが急に気をそがれてひっこんだだけです。
『いちどあったことだから』というのを根拠にしてぼくの記憶が断絶してるというふうに思いこませるってのは大胆でおもしろかったけど、なんでキカさんがひっこんだのかの見当がついてしまった。ひょっとしたらこれかもしれないなと思いました」
 ぼくは右手で左袖の穴をさする。
「まいったな……」
 ヨシノブくんが苦笑したが、ぼくもまいったと思う。たいしたものだ。
 かれらはかなり凝ったことをした。
 さっき起こったできごとの音声と、演技をうまく組みあわせて、芝居をいかにもさっき起こったことの客観映像のように見せたのだ。
「おんがくにまでスパイさせてぼくの動向を観てた目的を確認したいんだけど、ようするにぼくを竜の化身だと思いこませて、コンテストとやらの優勝候補を、クラス内に増やしたかったってこと?」
「半分はそう。もう半分は、そしたら本物が釣れるかな、と」
 本物。
 やっぱり、いるのだ。
 金髪と目しか印象に残っていない、あの少女。
 山中で出逢い、窓をぶち破って襲ってきた、本物の『再来』。
「どういうわけだか、きみに興味を持ったようだしね。心あたりは?」
「ないね……キカさんと彼女の関係は?」
「だれも知らない。キカちゃん本人は、やつに呼ばれたと言ってる」
「そうか……」
 ぼくはキカのほうをまじまじと見た。さっきまでそらしつづけていた目は空のような青。深い群青の視線でぼくを空間に縫いつけ、圧倒的な存在感の声を発していたあの少女とは似て非なる、小麦色の肌の女の子。
『本物』がつけた歯形におびえ、攻撃衝動を抑えられなくなったのは、たぶんおなじしるしが彼女のどこかにもあるからだろう。
 さっきの映像でぼくの唸り声として使われた音源は、どこかで録音した『本物』のものだろう。
 ヨシノブくんが進み出て、律儀に頭を下げた。
「すまないな、だまして笑いものにするつもりはなかったんだが、歓迎のしかたとしては不調法だった」
「いや、のせられてもよかったんだけどさ。ごめん、気づいちゃったから」
「怒ってないのか」
「自力で発見しちゃった以上、謎を解いた達成感ってものがあるしね……腹も立たないよ」
 横でくすくすと笑い声がする。
「……ね?」
 連絡係をつとめていたらしいおんがくが、なぜか勝ち誇ったように、
「だから言ったでしょ、たいぎーはめんどくさいのをいやがって、一番めんどうな道を選ぶって」
 ぼくは鼻を鳴らして、それに応えた。そりゃそうだ。めんどくさいという気持ちが発明や発見を生んできたケースだって、いくらでもある。両親は、そんな意味でつけたわけではないだろうけど。
 本物、か……
 占い師先輩のことばを、ぼくは思いだす。
 ここを、この世界を、はじき出された先なんてふうに認識していては、楽しめませんし生き残れません──この学校に呼ばれたために、あなたのもといた世界は消滅した、そう思うべきです。
 呼ばれたとしても、それは、とぼくは思う。
 この学校にじゃない。
 ここに眷属を集めたところで、どうする気かまではわからないけど。
 ぼくはクラスメイト全員を、もういちど見渡す。

「じゃ、あらためて、ヶ原大儀です。よろしく、みんな」

 こんなお祭りでもなければ、だれも疑うわけがない。ぼくはただの、あたりまえの人間にすぎない。常識で考えれば、もちろん。
 そうクラスに認めさせ、だましおおせたぼくは、会釈した拍子で、
 喉の奥が、だれにも聴こえないほどかすかに低く、るるる、と鳴った。



『洗礼』というものらしい。

 竜とかかわりのありそうなものにはなんらかの『しるし』を残していくのが再来さんの習性だそうで、数名の生徒がどこかに彼女から受けたダメージを負っている。精神的なものもふくめて。というか習性とかいって完全に獣扱いしてるのだが、いいのだろうか。
 ふだんは裏山に棲息。たぶん自給自足。服や髪は小ぎれいなのでそれなりに文明的な生活水準ではあるようだが、住処をさぐりあてたものはいない。
 いちおう学苑に在籍しているが、キカとは異なり授業に出たこともなく、本名も不明。
 ようするに、なにもわかっていないも同然だ。

 みんなが騒ぎ疲れてぐったりと沈没しているなかで、ぼくはキカとの再接触を試みていた。同類同士、情報交換できるものならしておきたいからだ。ムリそうだけど。
「るおおおう」
 キカが萎縮しているのは、ぼくの腕の噛み痕が『親玉』のものだからだったようで、いまだにこちらに近寄ろうとしない。ぼくはじぶんより強力な相手に恭順することに抵抗はないが、ぼくより野性寄りのキカはそう割り切れないようだ。
 ああ、すると、キカにとってぼくは彼女の手下になるわけか?
「ええと、キカさん。ぼくもあいつのことはなにも知らないんだから、そろそろ緊張を解いてくれないかな」
「そいつは日本語あんまりわかんねえぞ」
 立花さんが言い、それから耳慣れないことばでキカに話しかけた。
 スペインからの留学生と言っていたからには、スペイン語か。
 キカはおそるおそるうなずいて、なにごとかつぶやく。
「『共にやつを討ち果たすつもりはないか。おれとおまえが手を組めばどうにかなるかもしれない』だってよ」
「ザコのセリフじゃないか……」
 立花さんの通訳に苦笑し、それからあらためて教室の窓を開く。料亭らしく障子風にデコレートされているのが芸が細かい。
 窓の外の光景をあらためて見やる。
 花火や出店でカラフルに彩られた校庭。
 通常の人間には維持できないエネルギーで保たれる世界。
 なにをするにも大がかり。
 大儀。
「……竜神さまは、これをずーっと楽しんでいるってことですよね」
「あん?」
 疲れて眠りはじめたキカの頭をなでていた立花さんは、唐突なぼくの発言の意味を量りかねた模様。ぼくはそのまま、かれに向けてというよりひとりごとのようにつづける。
「ずっとお祭りを続けているってのに、飽きないで楽しんでるから、約束どおり災いが減っているわけですよね」
「まあ、そういうことになるわな」
「ずっと楽しめるって、すごいことですよね」
 この学校にやってきてから初めて、ぼくは心からのことばを口にした。
「ぼくは楽しめそうにない……大騒ぎするのは好きですけど、それがいつもとなったら、ぼくは耐えられそうにないです」
「慣れろ」
 立花さんはそっけなく言った。
「というか、慣れちまうからあきらめろ」
 それもそうだ、と思う。
 ぼくは、なににも本気でとりくんだことなんかない。じぶんが魂に竜を棲ませていることなんて、造作もなく隠し慣れている。
 ヶ原の家に生まれてこのかた、ずっとだからだ。あたりまえに棲ませ、あたりまえに不便な思いもしつつ、あたりまえに隠している。いまさら、どうとも感じることはない。
 この地を護る竜神は、ここに仲間を呼び寄せてなにかを始めようとしているが、ぼくがそれにつきあうとはかぎらない。力ずくで従わされるかもしれないけれど、そのときはそのときだ。
「たいぎー、どうしたの? なんかうれしそうな顔して」
 いつの間にか復活していたおんがくが、ふしぎそうにぼくの顔をのぞきこんでいる。
 ぼくは答える。
「これはたしかにひどいことだな、と思ってるんだよ」
「?」
 もって生まれたものなど関係なかった。ぼくには、なにをするつもりもなかった。平穏に進行するはずだったぼくの人生は、平穏でない方法でねじ曲げられた。
 踊るにせよ、観るにせよ、ぼくはもう祭りに参加させられてしまった。大がかりな儀式の一部として、組みこまれている。
 だれもがいつかこうして、いままでただ自由なふりをしていただけだということを、思い知らされる。
 やっかいなことに──
 たしかに、ぼくのもといたところは消滅させられてしまった。
 はじめから、そんなものはなかったのだ、と。
 でも、あわてて飛び移った足場がたとえ薄氷の上だとしても、ぼくは、
「とりあえず……おんがく」
「はい? なに?」
「ぼくはコンテストに向けてなにをすればいいのかな」
 樹を隠すには森に。竜を遠ざけるには、竜になりすましてみせればいい。
 日常は攻撃的に護るもの。こちらには世界のヒューズを進んで飛ばすつもりなど、ない。

 かくして大いなる再来に向けて、竜たちの集結は始まったが──
 もちろん、ぼくの知ったことじゃない。